博物館の目的

古代から現代まで歴史に名を残す地に、日本建築の集大成を再現

清和源氏発祥の地・川西は、歴史上の要衝

purpose_photo 大阪青山歴史文学博物館が立地する一帯は、丹波街道と能勢街道との分岐点にあたります。現在では北から延びる小高い台地となっており、本館の敷地はこの台地の南端に位置します。周辺は信仰の地といういわば聖域を形成し、多田神社、平野神社、善源寺、大昌寺などが点在しています。また、北西には信仰の対象である妙見山も見渡すことができます。丹波街道沿いには北摂三大城郭のひとつにあげられる山下城をはじめとする砦・陣屋・城郭といった施設がつくられ、その数は数十箇所にものぼります。これは、当該地が山に囲まれた要害の地であるとともに、早くから開発がすすみ、京都・大阪から丹波に通じる幹線路であったことによります。武将をはじめ文人墨客が頻繁にこの地を訪れたこともあり、中央の文化がもたらされ、地方文化の発展がみられるようになりました。

 また、この地域は多田神社を擁する清和源氏発祥の地にあたり、平安時代に源満仲(清和天皇の曾孫)が多田の地に居住し、発展の基礎を築きます。以後一族は多田源氏と称し、摂関家と手を結びながら着実にその地盤を固めていきますが、なかでも中世以降、山下城を本城とする多田源氏の塩川氏は、多田院御家人の筆頭格として、当地の歴史に大きな役割を果たしてきました。さらに、近郊の多田銀銅山をめぐる戦国武将の動きも注目され、特に織田信長による全国統一事業の過程で、その勢力がこの地域に及んだことが諸資料により窺われます。

 江戸時代に入ると、幕府は川西周辺を直轄地(天領)とし、銀銅山の確保に力を注ぎました。また、幕府はこの地域が清和源氏所縁の地であることを重視し、徳川家の庇護のもと多田神社に対する武家の祟拝はさらに高まり、現在に至っています。

日本文化の遺産として。城郭建築を採用

 本館周辺は歴史的にみて政治・経済上重要であるとともに、武家文化が華開いた地域であるという特色を持ちます。時代の流れを常に敏感に受け取り、それに対応した在地勢力の関連史跡が多く存在するという点は、私たちに実に多くの興味・関心を与えてくれます。経済を重視した信長も積極的に在地との接触を試みましたが、この際、塩川氏をはじめとする(主として清和源氏の流れをくむ)在地勢力との結び付きはさらに強まったとみてよいでしょう。この事実は川西周辺の歴史を考える上で重要であり、中世から近世にかけての複雑な歴史像を解明する材料を含んでいます。特に、安土城といった近世城郭の先駆的な城を築いた信長の先進的な気風は、この地域にも少なからず影響を与え、在地勢力の動向を左右したものと思われます。

 城郭は単に軍事的な要害というだけでなく、周辺の経済圏をおさえ、時として政庁的な性格を持ち合わせていた場合がみられます(例えば波多野氏の八上城など)。建築過程においては当時の最高の技術を導入するなど、大きな努力が払われ、それは武家文化のみならず日本文化を理解する上で多くの材料を提供してくれます。

 こうした点を勘案し、本館施設は歴史・文化的見地から当該期における日本文化の集大成的な性格を持つ城郭を構想しました。設計にあたっては、特に近世城郭の嚆矢であり現代建築の源泉的な存在という性格を含んだ安土城に注目し、その構造や思想を参考としています。

 本館が、日本文化に対する理解をより深める場として、さらに北摂地域の文化発信拠点として、新しい文化活動の発展に貢献できるように努力していきたいと思います。